ブルドーザーが怖い

Esaay
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How’s goin guys, It’s Koshin(@k__gx88

 

「君は何をしても続かない」と後部座席から聞こえてきた。肩を回すフリをして目線を向けると、図体だけ一丁前のAと悲しげに俯向くBが座っていた。なぜだろう、いつか同じ様に倦ねていた頃の僕を想起させる。

少年よ、「継続力が無い=悪」という皆が正と信じて疑わない教義には、耳を傾けずともよい。

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正直者の叫び

ニュータウン開発プロジェクトが進むことで森林伐採が段々と進む多摩丘陵では、人間に対抗すべく化学の復興を掲げたタヌキ達がいた。街に繰り出して人間の技を盗む為、「正吉」を始め多くの若手タヌキは人間に化ける修行に勤しんでいた。

着々とレベルが上がっていくタヌキが増えていく一方で、怠け者の「ぽん吉」を始め化学の習得に力を入れない者もいた。住処がコンクリートに変わり果てようとも、授業をさぼっては果物を取り、子孫を残すことに躍起になっていた。

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「何かしらの問題が目の前に顕在化した時、必死に努力することで打ち克つことができる」という大人達の言葉を当時まだ小学生の頃の僕は目をキラキラ光らせながら聞いていた。あくせくと汗を流しなら一日一ミリ地道に歩いてきたが、今となっては、当時思い描いていた理想が蜃気楼であったかのようにボヤけて仕方がない。

隣をみると自分だけが取り残されたような感覚に陥ることが増え、ソーシャルメディア全盛の時代になったこともあり、はがゆさを感じることが多くなった。同時に、デバイスから取り入れた情報によって焦りを覚えては本来の姿とは切り離し、ある種の自己暗示を掛けながら生活していた。

ただ、タイミングこそ何となくではあるが、ハッキリとした気持ちで他者との距離感を図るスキルを放棄した。「自分らしさ」と片付けるのには反吐が出るが、御しがたい本能で生きるのは美しい。

「おろく婆よ、そんなに気張らずに茶でも一杯どうだい?」

 



無条件

三日坊主であっても、まして一日坊主であっても良いのではないかと歳を追うごとに感じるようになった。ふわっと湧き上がった好奇心のままに取り敢えず挑戦してみないことには、それの良し悪しなど分からない。

やり始めたが故に引き際を恥ずかしがってしまうことはよくある。人間とは常に怠惰に半身を引っ張られた欲深い生き物であることは事実で、「午後には、今日中には、まあ明日こそは」といった思考に陥っていく。動かない自己に対し徐々に嫌気が差してきて、モチベーションを上げる為に漁った動画を見ては尚のこと自己嫌悪に拍車をかける。そんな退屈な時間などゴミ箱へ捨ててしまった方がよっぽどいい。

よーいどんをしたタイミングは探り探りであるにしろ、少なからずワクワクしたであろう。それにも拘わらず日を追うごとに続かない理由など聞かずとも明白であり、「つまらない」の一言で片付けられる。相対的な価値観という物差しで図り、理想の自分と他者への劣等感から押しつぶされてしまうなど稚児のママ事と変わりない。

少しでも脳裏に「面倒くさい」がよぎった暁には、スパッと切り替えて次の山を登るべきであり、怠惰を押し切ってまで続けたところで、得られるのはご褒美という名のたかだか数百円の菓子に過ぎない。やってみたものの馬が合わないのなら、綺麗なモノを新たに探し出すチャンスである。鏡に映る後ろ髪を引かれている姿など、汚濁の極まりと思えてならない。

 



相変わらずAとBとには不穏な空気が流れているが、彼らの結末を見届けることなく僕は停車場で降りることになった。何もできない自分を恥じることが多ければ多いほど、スルメイカのように味わい深くなる。

保育士に手を取られながら歩く子供達の列が、バスを降りたばかりの僕の目の前を横切る。「狸さん狸さん、あーそぼーじゃないかっ」と聞こえてきた。僕はネクタイを緩めて、ある一点を懐古しながら工事現場を眺めていた。

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