How’s goin guys, It’s Koshin(@k__gx88)
暗い深淵から這い上がる術は「怒り」であると思っていた。微かに見える希望をも蝕んでいく絶望は、それを掻き消すほどの憎悪を持てば良い。
「悔しさをバネに」などの生半可な気概ではなく、傷害さえも厭わないほどの凶暴性こそが道義とさえ信じ込んでいた。
Get Ready⇨
何でも無い日
周囲に馬鹿にされようとも、父が撮影した『ラピュタ』は実在すると信じてやまない「パズー」は、見習い機工士として汗を流していた。ある日、『ラピュタ』への手掛かりとなる「シータ」を助けたことで彼の生活は一変。海賊や政府から必死に彼女を守るようになった。
途中、幽閉の身となって切り離されてしまうものの、海賊の協力により彼女の奪還に成功。追われる身になったことやロボット兵が目前で破壊されたこと等により暗病んでいく彼女を、彼は終始はにかみ笑顔で元気づけることに努める。そして遂には、酷い嵐に巻き込まれながらも幻の島へと到達した。
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僕の日常には、ドラマや映画でいうところの心躍るターニングポイントなどは訪れることがない。同じような時間に寝て同じような時間に起き同じような順序で身支度をしてアパートに鍵を閉める。
昼時の日替わり定食だけがカレンダーの作用を果たしてくれる生活にも些か飽き飽きしているのか、と聞かれることもあるが全くそんなことは無い。大きなイベントが無いだけであって、日常の小さな事象に立会う面白味を知ったからである。
振り返ってみれば、自身に降りかかる出来事の全てに対し、基本的には憎悪に近い感情で当たることが多かった。「何をしても駄目ね」と冷笑される度に殺意を懐にしまって陰で自分なりに勤しんだ。
単細胞と揶揄されることを承知しているが、人間とは誰かを見返すと心に決めた時、これまでの怠惰が嘘であったかのように行動を改めるものと思う。反骨精神とは良く言った。敵愾心の肥大の向こう側にこそ恍惚が待っていた。でも、それは学生時代までのチンタラした生活の中だけでの話だった。
社会人二年目の今となっては、それを続けたところでラピュタには行けないと知った。個人プレーを犯せない僕にとって、自己にも他者にも憤りを覚えることは多々あるも、それを基に反逆的な姿勢を持っても竜の巣だって姿を現してはくれまい。
シュールなボケ
誰が見聞しても可哀想と思われる出来事は「悲劇」ではなく、その暗さの中であっても明るさは存在する、という風に観点を変えない限り実社会では死んでしまうらしい。理不尽で薄っぺらい正義感を翳した罵詈雑言の数々が、匿名という傘から散弾銃のように対象者を襲い、それによる弊害が社会問題となっている今、他社との関係性も考え物である。
周囲との軋轢による焦りや不安による活力が正義なのかは分からないが、コンプレックスを抱えた孤独な僕は、よく筋道を誤り陳腐な思考回路に陥ってしまう。自責や他責に苛まれた時、全てを忘れて放浪するのが習慣になっている。
先日、バスで移動していた時、交差点の角にあった中華屋がピザ屋になっていた。回鍋肉定食が好きで何度か通っていたこともあり残念に思ったが、中から同じ店主が小綺麗なエプロン姿で出てきては開店を知らせる旗を掲げていた。
そんな奇妙な光景にニヤけていると、妙に騒がしく話している車掌の声がイヤホン越しに聞こえてきた。聞くと、オーディオに不具合が起こって自動再生される広告が流れなくなり、代わりに車掌が各店舗案内をしているではないか。途中途中うる覚えである為に店によってはスっ飛ばしていたものの、その健気な姿勢には腹を抱えた。
その足で1000円カットの散髪屋に行った。かれこれ3年は通っている。基本的には仕事帰りのリーマンや近所のおじいちゃん世代が多い。若い女性客など見たことないと店員と話したのだが、仮に絶世の美女が来ようともカットに変わりは無いと豪語していた。その矢先、毛先だけ揃えて欲しいと大学生くらいの女性がやってきた。僕と入れ替わりで台に座った女性を担当する店員。店を出て隠れて中を覗いてみると、見たことが無いほど汗をかき、これまた見たことが無いほどハサミを持つ手は震えていた。
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誇示できるようなことが起こらない日であっても、視点さえ変えれば「笑いの種」は落ちている。それを拾いながら歩けば心は平静を取り戻し、また一歩を踏み出そうと決意できる。一方で、その喜びに浸っている間に「怒りの影」が近寄ってくることも屡々あり、そんな時は放浪する。
基本的に人生は暗さの連続。その暗さを追い払うのは「怒り」ではなく、暗い中にある小さな明るさ、つまり「笑い」にこそ意味があると今では強く思う。