廃れゆく街の書店に生きる価値とは?

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How’s goin guys, it’s Koshin(@k__gx88

動画サービス全盛の時代、文章を読むという行為自体が減少している。

レンタルビデオ屋同様、街の書店が姿を消しつつある昨今。時代の盛衰によって、全ての書店がかつてのような活気に満ち溢れたスペースとは言い難い。紙の本での読書という習慣は、一部のマニアの趣味かファッションとしての位置づけに変わっていくのかもしれない。

そうなる前に、書店でしか味わえないモノについて触れたい。

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未知なる世界への扉

小学生の頃、友達との他愛無い笑いに明け暮れながらも、独り図書室に入り浸ったことを覚えている。隅っこのほうで床に本を置き、前屈みになって其の世界観にのめり込んでいた。

年を重ねるごとに生活水準が段々と上がり、視野は広がっていった。歩幅を合わせ一列になって歩いていた通学路は、自転車で独り風をきるように。隠れんぼ等の無邪気な遊びが、今となっては顔が火照る悪戯やテレビゲームに時間を費やすように。「いますか?」と親御さんに掛けていた電話が、直接メッセージを送ることで待ち合わせが簡素に。

だが、それら利便性とは対極に存在する本との関係性が変わることはなく、拙い頭を活性化させると同時に嘆かわしい言葉の選択肢を増やすべく、書店や図書館に足蹴に通った。

さて、世の中には知的好奇心を擽るモノがごまんと溢れており、一度歩みを進めると新しいモノに出会える。しかし、ふと顧みると咀嚼できない事象には蓋をし、理の範疇でのみ解釈を繰り返していることに気付く。

欲求に身を任せ、興味・関心事にしか目を向けなくなっては、生きているとは言えない。そんな折に、過去と現在とが息をする受動的空間の筆頭とも呼べる書店に身を置くことは、自己に大いなる「無知」を突き付け、血が湧いてくる。

 



体験としての読書

「アルゴリズムによって画一的に紹介されたモノ」

「そこに行ったからこそ巡り合えたモノ」

この両者では得られる価値が異なる。ECサイトの人気ランキングや以前触れた物の関連書籍などを購入するのは便利であり、更に言えば「要約サイト」などで気になる書籍の概要を抑えるのは確かに効率がいい。

だが、そもそも「読書=効率が悪い」という定義に疑問を投げかけたい。最短ルートで答えに辿り着くことが出来るのが、何も最適解とは限らないのではないか。一辺倒にネットサーフィンを繰り返し、「A=A」をひけらかすことほど馬鹿げた行為はない。

昨今、独立系なる書店が人気を博し、カフェを併合したり読書会を開いたりなどで人を呼んでおり、商品ラインナップ自体も店主のキャラクターによって異なる顔ぶれが棚に並ぶ。書店を短絡的に読む本を買う場所として捉えるのではなく、その周縁行為から読書を始めてみるのは面白い。

頭を空っぽにして店内をぐるっと見て回り、手にした本について伺うついでに他愛無い会話を店員とすることで、書店は「ただ本を売っている場所」以上の価値を与えてくれるだろう。

 



さいごに

読書に対し肯定的でない層にとって、書店の存亡など意に介さないテーマだろうし、書店のコミュニティなる面を訴求したところで何も響かないのは百も承知である。読書という行為に対する苦行や利便性に欠けるといったイメージを払拭するのは簡単ではない。

「読書をしない層を取り込む為の施策」を敢えて否定しない。だが、崩れゆく出版業界に防波堤を作る必要があるとすれば、作為的であろうと「少なからず文章を読んでいる若年層、とりわけ児童を逃さない為の施策」に目を向けるべきでは、と僕は思ったりする。

これもまた簡単ではなく、僕らの書店を残すには何ができるのか、日々思い倦ねている。

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