一度は「ここじゃない何処か」へワープしたいという衝動に駆られたことがあるだろう。
でも現実は世知辛いもので、今ここを生きる他に道はない。偶には、さしずめ臭い物に蓋をするように汚く濁った視界を恣意的に調整してみてもいいじゃないか。
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エーアイ
スマホの中は迷惑なほどに推奨されたコンテンツで溢れている。一度でも検索したワードに対して、似たようなジャンルの動画や画像さらには商品の広告を押し付けてくる。まるで知らない人物が脳内に侵入し、一歩か二歩くらい先の未来を指示して回っているように感じる。
その時は関心があったのかもしれないが何回も見たいわけではない。
恋愛だって毎日のように連絡を取り合うよりも、ごくたまに電話で話した方が特別感を得られるだろう。欠陥しているからこそ美しいと言っていた映画監督には激しく同意する。
膝を付け合わせて会話したこともないコンピューターに勝手に嗜好性を押し付けられるなんて笑ってしまうよ。課題図書を決められている夏休みの読書感想文に当たる方がマシな気分だ。
ただ漠然と「何となく見ても良いかも」みたいなものに塗れた状況。
こちらの弱みだけ握られているような感覚だ。お前もボロを出せば突つき易いのに、こちらが調べて欲しいことに対して常に完璧に要望に応えてくれるから溜飲は下がらないままだ。
確かにトレンド情報を教えてくれるのには助かっている部分もある。心の余裕が無くなるのに比例して時間的ゆとりを持てなくなった今、受動的とはいえ流れてくる情報をキャッチできるからだ。そこから興味を惹かれてプラスアルファの情報を探す旅に出掛けていると仮定したら、その地図を渡してくれる存在に感謝を示したいと思う。
だが、その決断は時期尚早なんじゃなかろうか。
脳内に入り込んだ “ソイツ” に、いつの間にか選択の全権を握られている気がする。
暗中模索
ある日の帰りのこと、家の近所にあるタイムズ駐車場の塀の上にコンタクトの空き殻が2つ置かれているのを目にした。苔が生えたコンクリートに点のような模様を作っている白っぽい物体に何だか妙に目を奪われた。
ビルの間を走り抜ける初春の風が、外れるか外れないかギリギリの端まで捲られたケースの蓋をハタハタと揺らしている。
誰かがレンタカーを借りる前に心機一転を図ったのか。はたまた何者からか逃れる人間が逃避行の道中で視界をクリアにするために塀に隠れながら装着したのか。いや、どこかの家の猫が飼い主の朝の恒例行事を邪魔することに喜びを覚えているのか。
ぼんやり眺めながら妄想を巡らせた後、興味本位で僕が今つけているコンタクトレンズを外して殻の中に入れてみた。
ケースの中に薄く残った液体に浸されるレンズは、ベッドに横たわり夢を見る少年に思えた。僕は絵本を読んで聞かせるパパといったところだろう。
視力が悪いうえに酷い乱視で何も見えやしない。
反射を繰り返し、目に映る全てが大きくなったり小さくなったりする世界で、色とりどりに淵がボヤけていく物を顰めっ面で見る。信号の色や自販機の明かりがが通常の10倍くらいの大きさで近づいてくる。まるで僕が夢の中に居るかのようだ。
小さい頃、キングサイズのベッドで祖父と一緒に寝ていた。怖いものを想像して身震いしたとき、嫌なこと思い出して辛くなったとき、何度も大きな背中にしがみ付いた。湯たんぽのような温かさ。寝息と共に一定のリズムで揺れる身体に触れて、安堵して眠れたものだ。
薄暗い部屋の遠くの隅の方から微かに聞こえる時計の針が動く音。夏にはカエルやキリギリスの合唱の声、冬には屋根から雪が落ちて地面を叩く音。
いまにも聞こえてきそうだった。
クラクションで我に返る。
右側を通り過ぎた車のスピードの速さとマフラーから漏れる排気ガスの匂いとで現実に引き戻された。でも何故だろう、ほんの数分間の家路は日常の風景とは異なり、あの道を曲がれば安心感に溢れた祖父の部屋の扉が現れる気がした。
?
コンタクトケースは僕のために今日あの瞬間に置かれていたに違いない。
ぼくら現代人は、いや僕は、あまりにも東京に巣食う羨望や嫉妬や絶望に目を向け過ぎていた。追い掛けてくる現実に目を逸らす一方で、追い付けない理想に悲観して隠れたくなる。中途半端に隠れるくらいなら東京から逃げ出したほうがマシなんじゃないかと思うことさえある。
でもコンタクトを外せば煌びやかに輝く何かが待っている気がする。それは単なる現実逃避ではなく、見え過ぎている事象から距離を取って余白を楽しむことなんだ。
ちょっと休むことを覚えた。
まだ途中なんだから。