幸福とは他者を笑わせること

Esaay
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How’s goin guys, It’s Koshin(@k__gx88

 

小さな嘘を吐き続ける少年がいた。それは、プライドを守る為や自身を誇示する為という類のモノじゃない。

ただ周囲の人間を笑顔にさせたいという一心から、つい口から虚言が飛び出してしまう。小さき道化師は、幸福の在るべき姿を熟知していた。

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ピエロの誕生

「ウソップ」は来る日も来る日も “海賊が攻めてきたぞーっ” と叫んだ。ある人は「このホラ吹きボーズ」と怒り、ある人は「よくやるよなあいつも」と笑った。

村人を欺き、追いかけられることを面白がっているだけの狼少年に見える。しかし、その背景には、病で倒れた母親を喜ばせようと必死に考えた末の彼なりの優しさがあった。帰ってこない「ヤソップ」が海岸に現れたと告げることでしか、抱えた寂しさや怒りなどの葛藤を拭えなかったのだ。

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人は様々な理由から嘘を付く。バレたくないことを隠し、悪者じゃないということを証明するために嘘を重ねるものだ。それらが功を奏して何とか誤魔化せた経験もあるだろう。その一方で、嘘をつき続けることへの罪悪感に苛まれることもある。何とも厄介で自業自得の極みとも言える。

昔から僕は嘘つきだった。先述の通り、誤魔化せたことでの安堵を知っている。また罪悪感も嫌というほど味わった。でも、嘘はデメリットだけではないことを年を経るごとに気付くことになる。

例えば、知人とお茶をしている時に何とも言えない空気が漂ったとしよう。その気まずさに耐えかねて無理にでも話そうと努めたことは誰にだってあるはずだ。そういった際、基本的には落ちのあるショートショートが適していると思う。

相手の顔色を伺いながら静かに話し始める。話の端々を知るコチラからすると、徐々にエスカレートしていく展開に自分で笑いそうになり、必死で笑いを堪える。でも、往々にしてそういう時の話は大して面白くない。むず痒さと恥ずかしさから何だか腹の虫が収まらなくなり、帰りたくなってしまうことさえある。

「こう話したら面白くなるかも」「この順序の方が意外性あって驚くかも」といったように、少しずつ話に調味料を加えていき、来るべき時までに温めておく。そうやって何とかして相手を笑わせようと躍起になっていた少年は、いつからかピエロと化していったわけである。



悪気はない

ある日、川を挟んだ向こう側の田圃にオタマジャクシが沢山いるという情報を聞きつけた。当時10歳くらいだったと記憶している。友達6人と学校帰りに現場へ急行した。その川を僕はジャンプして渡ることができたのだが、中には怖がって飛べない者もいた。幅は2mで水面までの深さは1mほどだったと思う。

時間はかかったが、遠回りした者も含め何とか全員が田圃の畦道に辿り着くことができた。身を屈めて水面を覗こうとした時、見回りの先生が勢いよく走って来るのが見えた。子供ながらに鬼の形相だと遠目にして理解できた。

そこからは散り散りに脱兎の如く逃げたわけだが、ある者は焦って反対岸に飛んだものだから助走が足らずに川に落ちた。ある者は細く足場の悪い畦道を走り、ぬかるみに足を取られ田圃に転げ落ちた。僕はというと、それらを眺め笑い、「オタマジャクシの観察をしていました」と先生に言い放った。もちろん全員が均等に拳骨を喰らったのは言うまでもない。

 

この話、これまで過去何回も披露してきたが、相手によって川や田圃に落ちた人数は異なる。1人で笑ってくれれば話は終わるが、クスリともしなければ2人目を落とす。しまいにはランドセルも落ちたことにする。先生も急いで走ってきて川を飛び越えたものだから、畦道を通り越して田圃に着地して脚をはまらせたことにする。

何が本当で何が嘘なのか、という議論は必要ない。問題は、相手のことを笑わせるということは、関係性の構築に左右するだけでなく、延いては自分自身の幸福に直結してくるということだ。

 



幸福論を記した「アラン」は “他人に憐みの気持ちを持ってはいけない” と説いた。悲しみや苛々などの情念に溢れ返っている人間は、同情すると余計に不機嫌になってしまうというのだ。病に伏し、心身ともに消沈してしまった人間に対してこそ、明るさを取り戻させるべく笑いの提供に努めなければいけない。

もちろん、日常の風景を面白おかしく話して笑いを取れれば良い。だが、例え想像を張り巡らせた作り話だったとしても、笑いの提供が叶えば十分じゃないか。

相手のことを想えば想うほど、僕も声高々に “海賊が攻めて来たぞー” と叫ぶだろう。

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