無我を探すため山を歩く

Esaay
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How’s goin guys, It’s Koshin(@k__gx88

 

周囲とのズレにより満たされない日常が続き、何をするにしても倦厭の二文字が頭を過ぎる。ビルを仰ぎ見て溜息をついては今日も地下鉄に乗り帰宅する。

マスクの下で作り笑いを浮かべて適当に場を凌ぐのは止め、誰にも邪魔されない神聖な山へと今日も出掛ける。

⇨Get Ready

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抑えきれない憎悪

村を襲った「タタリ神」に矢を放ち呪いを受けた「アシタカ」は、その呪いの真相を究明すべく西に向かった。基本的には弱者の側に立ち、“曇りなき眼で見定め、決める” と豪語する彼も、例えば容赦なく村人を襲う秩序なき侍に対しては、彼の意思に呼応するかのように呪いの力が暴走した。

怒りを、そして憎しみや痛み等を抑えるのに「シシ神の森」の水が役に立った。「サン」を助けようとして腹部に傷を負った際にも同じ森に連れて行かれた。

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ただ普通に生活しているだけでも、人は心の中に黒い塊を増殖させ続けている。良いことが起これば多少なりと進行スピードが遅れるかもしれないが、恨み・妬み・嫉み・・・などが積もり、時限爆弾は今にでも爆発しようとチクタク音を鳴らしている。

いつからか厚い雲が世間を全体的に覆い、晴れという概念自体を知らない時代になりつつある。

暗いニュースばかりが目に飛び込んできては心が荒み、さらに言えば、その情報も1週間も経てば忘却され新しい話題に切り替わっていく。暗さを払拭する為に触れるコンテンツにおいても、消費されるスピードが前にも増して加速し、挙句の果てには要約や概要だけのファストコンテンツが望まれるようになっている。娯楽なのか教養なのか分からないが、エンタメを楽しむことにも時短を要求するとは、不愉快だよ。

 

かくいう僕の毎日には、いつも雨が降っている。

何かしらが触媒となって身体中の神経が沸騰し、思想を表明することに躍起になろうとする。でも、声なき者である僕のような存在はカラスの鳴き声と同じか。いや思い上がってはいけない、雑音にすらなれず誰の耳にも届かない。

発言権を行使できない毎日など死んでいると同然だ。起きては耽りながら作業して寝る。あゝ、生きているという実感が欲しい。山に行って身体を、そして思考を、叩き起こさなくてはいけない。

誰も邪魔をしないでくれ。

アシタカも叫んだ、“押し通る” と…



自分だけの世界

3000m級の高い山に登って、これまでに見たことのないような壮大なパノラマには強い憧れがある。でも何故だか毎回のように山梨や奥多摩などの人の出入りが比較的に少ない山に足が向いてしまう。

まず、山登りを始めて知ったのだが、1700m~2000mくらいが可もなく不可もなく丁度良い。休憩を1~2時間とっても基本的には夕方には下山を完了できるから。そして何もより山梨や奥多摩などの山頂から見る富士山は壮観であり、富士は登るものでなく鑑賞するものと強く思う。

もちろん、山によっては満足な休憩時間を取れないこともある。例えば「雲取山」の鴨沢からのピストンは、初冬だと下山中に少しずつ暗くなり始める。秀麗富岳十二景の「本社ヶ丸~清八山」そして隣の「三つ峠」を縦走する場合、標準でも10時間オーバーというロングランになるため、場合によっては走ることさえある。

 

それでも、僕は制限の許す限り昼の休憩を大事にしている。ミルで豆を挽き、珈琲を淹れ、読書を開始する。これも山に登って知ったことの1つだが、本は山でこそ真価を発揮する娯楽だと思う。外界から遮断された場所で、自然が織りなす多種多様な音に触れながら一文一文を噛み締めるように読む。時には大きな声で音読することだってある。目から耳から入ってくる情報は、いつまでも頭にこびり付いている。

 

禁欲主義に代表される「ゼノン」は、幸福とは徳によって生まれるとして、その徳とは「快楽や欲求に打ち克ち、理性に従って正しい道を歩くこと」と提唱した。一方で、快楽主義に代表される「エピクロス」は、最高の善は快楽にあるとして、その快楽とは「放蕩や享楽のなかにある快楽のことではなく、身体に苦痛のないことと魂に動揺がないこと」と提唱した。

山に登ることは、この両者の思想を体感できるのではないか。

潜在的に抱えている不安や悩みを瞑想して省みることができる一方で、何もかもを忘れて自分一人だけの世界で静かに悦びに耽ることができる側面もあるからだ。



正直なところ山に登ることに大層な理由は一つもない。さらに言えば、皆が口を揃えて言う「達成感」など感じたこともない。眠い目を擦りながら朝4時に中央線に乗ったが最後、もう行くしかない。登山口に着いたら最後、もう登るしかない。そして登り始めた瞬間から早く帰りたいとさえ思っている。

では、なぜ山に行くのか。

僕は隠れたいのだ。都会に住まう獣たちの目から逃れたいのだ。自分の感情と比例するように肥大したり萎縮したりする影から一時でもよいから離れたいのだ。

誰の目も気にせず、走り回ってもよし歌ってもよし大地に寝転がってもよし、一人の人間として自然と戯れたいだけなのだ。

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