精神が弱っている時には映画館へ

Esaay
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How’s goin guys, It’s Koshin(@k__gx88

 

何だか気分が乗らない日が続いている。特段、身の回りの日常が変わった訳でないが、見飽きた時計が今日も針を動かしていることに嫌気が差してきた。

「お前に現実を知らせる為に私は動いてやっている」と聞こえたような気がする。そんな生意気な時計をベランダから放り投げ、僕は暗闇に足を向けた。

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愛なんて捨てた

人を見た目で判断してしまったばかりに、魔女により「アダム」は酷く醜い野獣に変身させられた。アダムの横暴さを憂いながらも何もしなかった「召使い達」にいたっては、彼を甘やかして育てた罪があるとして家財道具に変えられた。

“バラの花弁が散るまでに真実の愛を見つけなければ、呪いを解くことができない” という言葉を残して去っていく魔女。

化け物のような姿かたちとなったことで生きる希望を失った彼は、例のバラをガラスケースに仕舞い込み、荒廃していく城の中で自暴自棄に陥っていった。

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人との接し方がよく分からない。いわゆる人見知り、昔からそうだった。気まずい間が苦手で、数人かで集まった際の何か話して間を繋げねばと思うことが苦痛だった。

屈託のない笑顔で馬鹿みたいに盛り上がっていた話は、いつからか下らない見栄の張り合いや下らない傷の舐め合いとなっていく。

これが人間関係の成れの果てと言うのであれば、最初から無かったことにした方が楽ではないか。貧困に足掻きながらも、空に吐き出した絵空事にタバコの煙を装飾しあった頃の方が幾分も満足度が高たったように思う。

場所は色褪せることがないから素晴らしく、いつ見ても過去を懐かしむことができる。仮にとり壊され新しい何かが建っていたとしても、美化した形で記憶に閉じ込めておけるし、何よりも嘘をつかない。

そう思うと人は厄介で、随分とややこしい。気にかけた昔の知人に声を掛けて久方ぶりに会ったところで、環境の変化は人を変えることを目の当たりにし、延いては今後の関係を見直す必要性を痛感する。

ただ当時と同じように笑っていたいだけなのに、と思いながらも淋しさを埋める為の代替行為から一切をもって足を洗おうと決意した。

足元がふらつき谷底に落ちそうな僕を「ベル」は救ってはくれまい。



優しい椅子

ふと家で独りになった際には畏怖や悔恨が襲ってきて、寂寞たる別世界に閉ざされた気分になる。

そんな時、僕は人知れず映画館に隠れる。僕にとって映画館とは、カップルにありがちなデートコースの1つなんかではなく、悪魔による精神の乗っ取りからの解放を求めに行く或る種の教会のような場所である。あの薄暗がりの中に坐る数刻だけは、世間から離れて、また他者を忘れて独りでホッと一息つける。

昨年も幾度となく映画館に逃げ込んだが、何本か強く印象に残っている。

例えば「HONEY BOY」は家族を省みさせてくれた。人気子役タレントからスター街道を走ったかに見えた主人公が、酒に溺れて不祥事を繰り返し、強制的に入れられた更生施設にて愛に飢えた幼少時代を回顧する物語。不器用な故に何か欠けており、近づいたり離れたりする親子という名の痛みを知った自分を重ね合わせてしまった。

また「mid90s」も良かった。スケートを通して自由奔放な生活を送る若者達のコミュニティが描かれるが、実態は「セックス・ドラッグ・バイオレンス」等と直結した人生を送る、謂わば闇の中での立ち振る舞いが主題。格好良いという外面に憧れた過去と、内面に広がった暗さにこそ目を向けるべきと気付いた現在とを確認させてくれた。

僕は “何事も芸の極地とは云々” と言えるほど自惚れてない。

登場人物のリアルな浮き沈みに心の底から喜怒哀楽を揺さぶられ、人目を憚らずに涙したという事実にしか興味がない。批判家の声、まして芸術家ぶった何も成し遂げられていない愚者の声などは眼中にない。人に言わせれば愚作(期待外れ)と評されるものであっても、十二分に心が洗われることはある。



人に理解して貰おうとは決してせず、ただ内省を繰り返す以外に悩みを解決する方法はない。

傷を早く回復させる為の糸口を模索していると、たとい僕がどこにいようともコーラやポップコーンが混ざり合った独特な匂いが蔓延する1室から弱々しい糸が眼前に現れ、吸い込まれる様に糸を辿っては椅子に腰を掛け、フィルムに映る沢山の人が生きる為のヒントを与えてくれる。

僕は、どうしようもない程に弱っている時に映画館に行く。猛っているなら時間が勿体ないもの。

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